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私と両親

はじめに
 虚弱児として生まれ育った人間がどのように生きてきた か。私の経験が「子どもたちの幸せを守る」ために必要な視点と思い講演を引き受けました。父母の存在が私の人生にどれだけ重要な役割を果たしたかを改めて 見つめ直しています。72歳という年齢になると死の恐怖が現実のものとなるが、「あの世に行けば両親に会える」と思うと気持ちが和むのです。
虚弱児に生まれて

 孤独と劣等感の中で幼少期を過ごした。強度の近眼で黒 板の字が読めず年賀状は1枚もこない。旧制中学や高校の受験にも失敗した落ちこぼれでした。人にほめられることがなく、どうしようもない自分に向き合う。 価値判断の基準はいつも自分の中。刑事弁護人を多くしている人は、「犯罪者になるのは、自分だけの価値判断で行動している人間が多い」と言う。私もそんな タイプの人間だが、両親だけが私を認めてくれたため犯罪者にならずに済んだのです。

 16歳まで寝小便をしたが母は怒らなかった。旧制中学の受験に落ちた時は「今は世の中が悪い」。私立中学に入り試験で1番になったら「あんたは天才 や」。25番に下がると「中庸は徳の致すところや」。何をしても無条件に受け入れてくれ、心に「安心感」があったのです。物事を自分でやろうという「意 欲」は衰えませんでした。幸せは、心の中にあるものです。

 小3のころ、成績が余りに悪く両親が学校に呼ばれました。2人とも小学校教師の経験があったので、担任は「勉強を教えてくれたらどうですか」。すると父 親は「公平は生まれながらにして金ではなく鉄。だが金メッキを施してもいつかははげる。鉄としてどう生きていくかを思い知るのが、この子のためだ」と。

 鉄として生きよう、生きていけるという「覚悟」が出来た時、物事を自分に問いかけ、活路を見出すようになりました。
 「能力」は、親や学校から学ぶものではない。自らつくりだすものです。

自立と両親

 1959年、1回目のお見合いで結婚。妻も弱そうに見え、両親は初めて私が決めたことに反対した。だが私の結婚観は「価値観と感性が共有できること」。つらい時も、一緒に乗り越えていく戦友。弱いもの同士、ドンな者同士で「マイナス×マイナス=プラス」。

 結婚後、両親からびた一文もらわないことに決めました。父も京都で弁護士を開業していたが、あえて大阪でやろうと。受け継いだ仕事もない。しかし両親の 願いはすべて受け入れてきました。父からは毎朝電話がかかってきた。両親の呼び名は死ぬまで「お父ちゃん、お母ちゃん」。一緒に食事に行った時は、父がす べて代金を支払った。

 森永ヒ素ミルク被害者の弁護団にと依頼された時、父に相談しました。妻や子を失うような覚悟が必要。公共団体や大企業の仕事も多かった。「やめとこと思 うねん」。父の答えは「情けないことを言うな。お父ちゃんは公平をそんな人間に育てた覚えはないぞ。

この事件の被害者は誰や。赤ちゃんやないか。赤ちゃん に対する犯罪に右も左もない。お前は確かに一人で飯を食えるようになった。しかし、今まで人の役に立つことを何かやったか。小さい時から出来が悪かったお 前みたいな者でも、人様の役に立つなら喜んでやらしてもらえ」。父から怒られたのは初めて。73年1月に父は亡くなり、そしてこれが遺言となったのです。

 森永弁護団長になったことをきっかけに、私の「現場主義」は決定づけられました。不条理なことで泣いている人に、同じ弱い人間としてどうすればいいの か。問題が起こった時、日本人は「HOW(いかに対応しようか)」を考えるが、私は「WHY(なぜ、問題が起きたのか)」を考えるようになりました。原 因、本質を考えなければ問題は解決しない。

 そのためには高い理念から考えることが大切です。理念の実現には準備と仲間、見取り図と公約も必要です。以後、豊田商事破産管財人、豊後産業廃棄物不法投棄住民側弁護団長、住宅金融債権管理機構・整理回収機構社長の仕事を、その考えで進めてきました。

 親父が命を込めてつけた名前「公平」「公(おおやけ)のために働くことが、お前の生きる道」だと。
 エゴの充満した日本社会。「みんなのために」何ができるか、万の人がそのつもりになってこそ、世の中が明るくなると思います。

中坊 公平 : 著 : 「わたしと両親」 : 幸せと豊かさは心の中に : 毎日新聞 : 2001年11月25日朝刊(一部 : 中坊 公平 : 著 : 「中坊公平・私の事件簿」 : 集英社新書 )