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神はどこにいるか

 一連のイエスの預言のなかで、私にとって決定的な意味をもったのは、人間と神との関係をひとつの物語によって示された次の一節です。

 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆 従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊 を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎ なさい。

お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞 い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』

すると、正しい人たちが王に答える。『主よ。いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のど が渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、 病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』」
      (「すべての民族を裁く」マタイ25・31--39)

 これは、死後の裁きの場面です。生きているときに人々がどういうことをしたかによって、死後に裁かれるということがまず予告されたのち、王は正しい人たちがなした行いを数えあげます。しかし、その人たちは、自分たちがいつそのようなことをしたのか覚えがないのです。

 「そこで王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」
      (マタイ25・40)

 ここが大事なところでしょう。神はどこにいるか。私は小さいときから、神は天の上の彼方にいるか、あるいは”おんぶおばけ”みたいに自分に は見えない背中のほうにいて、ちょっと意地悪く私のすることをじっと見ているのかな、と思っていました。神と人間との位置関係とはそういうものだと、ずっ と思っていたのです。しかし、ここではっきりと、(神は)あなたの目の前にいる者のなかにいる、と教えられたのです。つまり、「わたしの兄弟であるこの最 も小さい者」のなかにです。

 「小さい者」には何をあてはめてもいいのです。健康とか、権力とか、知識とか、美貌とか、運動能力とか、何でもいいのですが、とにかく、そういうものが 何もない。お金がなくて、さえなくて、頭もあまりよくなくて、特に技能も何もない。貧乏で、飢えて、困っている。そのような人にしたことは私にしてくれた ことである、そういう人のなかに私はいるのだ、とおっしゃっているわけです。


 これは私の信仰の生活のなかで、決定的なことでした。私は、人間は人間として生きており、神様というのは別のところにいると思っていました。けれども、神は人間のなかに、それもあなたの目の前にいる人のなかにいらっしゃるというのです。

 人間は、友だちを好きになる場合も多いのですが、時にはけんかしたり、嫌ったり、意地悪したり、無視したくなることがあると思います。本当にボランティ アをした人は、ボランティアを受ける人に腹を立てることがあると思います。

けれども、相手に対して怒りの感情をもったりもう親切にしてやらないと思ったり するそのときに、神はどこにいらっしゃるか。あなたの目の前にいて、あなたと対している人のなかに神はいらっしゃる。もし医師だったら、神は患者のなかに いるということです。その患者は、わがままで、そして文句ばかり言い、不従順で、かわいらしくない。そういう人のなかに神はいらっしゃるのです。

曽野綾子 : 著 : 「現代に生きる聖書」 : NHK出版