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母よ
生ませたまいしその日を別れ
子守唄はもちろんのこと
胡瓜をきざむ包丁のさばきなぞ
なんにも知らず私は大きくなってきた
しかし この
わたくしの指のすみずみまで めぐり
さらさら流れてゐるものは何であらう
母の小川であることを
わたくしは次第に知った
ぱら ぱら
五本の指かざし
たしかに見える
また珊瑚樹のわかれもて
背(せな)を流れてゐるものよ
里芋畑に夕陽がさし
しづまりかへる刻(とき)
流れの上に耳を当て
母の声を聞くかなしみを私は知ってゐる
夕陽の裡(うち)にしづまりかへる刻


    祖母に献ず

おばあさま
あなたは今年八十六となり
かみは白く
耳もとほくとほくなった
母のなかったわたくしは
あなたに育てられ
二十七年間
どうにか元気に明るくすごしてきた
けれどもわたくしは
足の悪いばっかりに
あなたのために
床を敷いてあげたり
また髪をすく水をくんできたりしてあげられない
ゆりかごに揺られていた昔のやうに
あなたの傍にゐるばかりだ
ただ、 わづかにわたくしは
ひるまへとひるすぎの二回
炬燵の上で
お茶の相手をしてあげる
あなたはむかし水戸浪人の通った話をかたり
また福寿草の咲くのはまだかと問ふ
わたしは新聞の記事のせつめいをしてあげる
あなたはニコニコ頷き
その耳に手をあてる
八十六のおばあさま
八十六のおかあさん
これがかうかうであるとはわたくしも考へない
だが風呂敷おほひをしたあかりの下に
夜よな
やすらかな寝顔をみせたまふ
あすの日も天気おだやかに晴れ
雪の上にきて遊ぶ
つぐみの影にぎやかにあれ
あなたのために
ひとりのあなたのために。


島崎光正選詩集 : 「悲しみ多き日にこそ」 : 教文館