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人間について

 バカというのは、差別語ではありません。
 人間の本性にひそむ暗黒の部分のことです。人間は一人で歩いているときは、たいていバカではありません。イヌやネコとおなじくらいかしこいのです。行くべき目的も知っていますし、川があればどうすればよいか、ちゃんとわきまえています。

 ところが集団になって、一目的に対して熱狂がおこると、一人ずつが本然(ほんねん)にもっている少量のバカが、足し算でなく掛け算になって、火山が噴火するように、とんでもない愚行をやるのです。

 民族・宗教・国家。
 この三つが、人間を集団化させています。この三つは、ひとびとがおだやかなときは、すばらしいものです。なにしろ、人間という生物は一人では生存できないのです。

 社会が必要なんです。右の三つは、人間に社会をあたえてくれる受皿になってくれるものです。あるいは人間に社会そのものをあたえてくれるものです。ときには、人間を社会化するために、化学でいう触媒にもなってくれます。

 見知らぬ土地で出会ったふたりが、「君と僕とは、おなじ民族なんだ」と確認しあうとき、どんなにたがいの心がやすらぐでしょう。

 また、数世紀前、マラッカ海峡で出遭ったアラブ商人とインドネシア商人とが、たがいにイスラムであることがわかったとき、うれしかったにちがいありません。

 国家も、そうです。
 近代の国民国家は、フランス革命によって発明されたものです。
 それまで、ひとびとは身分や階級のなかでしか生きていませんでした。それが、かれらの世界でした。

 近代国家によって、精神の居住世界がひろくなったのです。貧しい人も富める人も、”国家のため”と唱えるとき、清らかでうつくしい気持ちになることができました。

 第二次大戦後、無数の国家ができました。すばらしいことでした。
 同時に、戦後のすばらしいことの一つは、ひとびとがそれぞれの国家の国民であるとともに、人類の一員だということに、めざめはじめたことです。

 むろん、後者のほうは、世界じゅうが人類の一員である気分を共有したというようには、進行していません。まだ萌芽がみえているだけです。しかしすくなく とも、それがあたらしい歴史段階の理想になろうとしています。それによって人間自身がたがいに救われるという理念として認められはじめた、ということは、 十分いえるでしょう。

 むろんこの理念には、集団的宗教性はありません。集団的宗教性は、集団対集団の場合、かえって軋轢(あつれき)のもとになります。人間個々が、ひとかけらずつもっているバカとい暗黒の部分が、その軋轢によって可燃性の物質にかわり、爆発したりします。

 爆弾の信管をとりのぞくように、集団的宗教性を注意ぶかく除去して、しかものこっている叡智(えいち)を信ずることによって、この理念は生きてきます。

 人間は、一面、かしこい動物なのです。
「見て、考えて、話しあって、たがいの文化をたしかめあい、そのことを楽しみあう」
 という能力を持っているようにおもえるのです。
 人間にとって最大の楽しみは、人間を見ることなのです。人間が、異境に旅したがるのは、そのような知的本能というべきものを満足させたいからでしょう。

 文化とは、集団が共有している習慣のことです。
 人間は、文化にくるまって生きているのです。文化という定義は「それにくるまっていると、心が安らぎ、楽しく、安全である」といものです。

 地球上に、多様な文化があります。人間たちは、それにくるまって楽しく生きています。
 他者を理解する、ということから、二十一世紀の幸福は出発するでしょう。他者とは、むろん個人々々の場合もあります。しかし、人間は文化なのです。人間は、生物学的あるいは生理学的存在でありますが、それ以上に、文化としての存在なのです。

 この集いは、他者の文化に触れ、その核心についての説明をきくためにあります。それだけのことが、高度に哲学的で、かつ文学的なことなのです。
 同時に、世界性をもったことなのです。
     (平成3年3月)

司馬遼太郎 : 著 : 「司馬遼太郎が考えたこと 15」 : 新潮社