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人は大抵、自分が幸福な時は、他の世界に目が向かないものです。一頃、マイホーム主義という言葉がはやって、自分の家庭だけが幸福ならいい、という風潮が世間一般の考えのように見えたことがあります。

 自分の家庭や学校だけが幸わせで無事なら、近所に何がおころうが知ったことじゃない、という精神は、自分の国だけが幸せなら、地球の上の他の国に何がおころうが知ったことじゃない、という精神につながっていきます。

 それでは心が貧しくなります。自分が幸福なほど、他人の上にも幸福を願ってあげたいものです。
 仏教では、「一切衆生悉有仏性」ということばがあり、これはこの世のあらゆるものには、仏性があたえられているということです。私たちは、小さな赤ん坊の目をのぞきこむと、必ず、
 「何と清らかな、きれいな目をしているのだろう」

 と、心をうたれます。それは、赤ん坊が生まれた時、仏さまからいただいてきた仏性が、全く曇りひとつなく、そのままに輝いているからなのです。その目 も、少し大きくなると、わがままや、甘えや、怠惰や、貪欲で曇ってきます。子供の中には、大人の抱く悪の芽がすべて、早くも芽生えているのです。

 私たちは、生涯かかって、自分の心の曇りを取り除き、本来いただいたままの仏性の清らかな姿に磨きあげていかなければなりません。心に曇りがなければ、 本来の、み仏からいただいた智慧が輝き、いろんあ迷いや困難にぶつかっても、それに対応していくことが出来るのです。赤ちゃんの清らかな心を曇らせないよ うに磨くことが、おかあさんの責任であり、学校教育の根本なのではないでしょうか。

 仏教の最終の目標は、何者にも捕らわれない自由な心になることで、そのためには、人は物事に当たって判断出来る正しい智慧を持たなければならない、と仏教は教えています。

 智は、物事を常識的に判断して、事の組立てや性質を理解することで、慧は物事の深い根本について知り、考える力をいいます。この二つが具われば、生きていく上で、何がおこっても、正しい判断が出来、物事の本質が見ぬけて、危急も切りぬけていけます。

 正しく識るということと、考えるということが、人が生きていく上に大切なことなのです。いくつになっても人間は、学ぼう、識ろうという気持ちを忘れては、成長がとまってしまいます。人は、八十がきても、九十になっても、成長することが出来ます。

瀬戸内寂聴 著 : 「愛と祈りを」 : 小学館文庫