Home Page Image
   
 

 

 

愛別離苦の嘆き

 仏教ではこの世の苦を四苦八苦と称している。生、老、病、死の四苦につづいて、愛別離苦があげられる。

 愛別離苦とは、愛する者と別れる苦である。夫婦や恋人の相手が死別した時、残され者の悲しみは当然である。家族の誰かが死亡した時、残された家族は嘆き悲しむ。中でも、逆縁といって、子供に先だたれた親の悲嘆は、この上なく無残で慰めのことばもない。

 しかも、最近ではその死が病死でなく、事故死や自殺の場合も多い。
 結婚を目前に、事故死で一人娘を失った母が気を狂わせてしまった例も、身近に見ている。大学生の長男に遺書もなく自殺され、アルコール依存症になってしまった父親も知っている。


 経済不況が原因で働き盛りの五十代の男たちが年間六千人以上も自殺している現在の日本で、遺族たちの悲しみや苦しさは救われようもない。
 それ以上に、理不尽な殺害によって愛する者を奪われた遺族の悲嘆痛苦は想像を絶する。戦場にかり出された兵士たちの戦死、または爆撃で殺された非戦闘員の死、いずれも理不尽な死だ。

 あるいは無法者による殺害もある。
 六年前、十四歳の少年によって神戸でおこった連続児童殺傷事件で被害者となった土師淳君(当時十一歳)の七回忌がめぐってきた。

 当時は、とても少年の犯行とは思えない残虐な犯罪のうえ、犯人の酒鬼薔薇聖斗を名乗ったりした異常な文章にショックを受け、マスコミもろとも大騒ぎした世間の人々も、六年の歳月に、いつしかその気味悪い記憶も薄れ、忘れたかに見えた。

 けれども被害者の両親にとっては、一日たりとも忘れることの出来ない痛恨事であり、癒しようもない心の深い傷であった。

 折から二十歳になった犯人は、収容されている関東医療少年院から、今秋にも仮退院させる方針だという。犯人は「更生した」 「性的サディズムは改善された」と認められ、本人が「社会の中で生きたい」と望んでいるという。

 そうした動きに対して、被害者の父土師さんは、あの残虐な殺人を犯した人間が、わずか六年の間に、本当に改善出来たか、疑問に思うと反論している。一日 も、一刻も、理不尽な殺害にあったわが子を忘れることの出来なかった六年の歳月の重さが、土師さんには改めて心を刻み痛みとなって襲ってきたことだろう。

 また、五月二十二日には、二年前大阪教育大付属池田小学校で、出刃包丁を振りまわし、児童八人を刺殺し、児童や教師十五人に重軽傷を負わせた宅間守被告 に、死刑求刑が論告された。異例の速さのこの求刑を傍聴していた遺族たちは、「死刑でも不十分だ」というコメントを発表したという。

 罪もないわが子を殺された怒りと恨みが、二年の歳月で薄らいでいる筈(はず)はない。
 土師さんも池田小事件の被害者遺族の人々も、犯罪被害者たちが正当な支援を受けていず、ないがしろにされていると訴えている。

 土師さんは、三年前から「全国犯罪被害者の会」に、二年前からは「ひょうご被害者支援センター」の設立から関わり、署名活動や、集会への参加につとめているという。
 こういう思いもかけない不幸に見舞われることは、決して他人事ではない。幸いにして、そういう残虐な事件から逃れている人々の日常の上にも、いつ、そんな事件が降りかかって来ないという保証は何もないのである。

 人間は愚かで浅ましいから、わが身に直接感じない不幸には鈍感であり、不幸を蒙った人々に対しての同情も、痛みの共感も無関心に近い。
 それだからこそ、北朝鮮へ拉致された人々の不幸を、二十数年も見過ごして来られたのである。

 必死になって、拉致問題に取り組んでいる被害者たちの家族の心情に、果たしてどれだけ共感を寄せ、その痛みに思いをはせているだろうか。

 帰ってきた人たちが、家族と引きさかれたまま、どんな辛い切ない想いに堪えているか、また、死んだと宣告された拉致被害者の死を信じることが出来ず、真相を知りたいと、日夜心を砕いている家族たちの苦しみに、どれだけ親身になって心を寄せているだろうか。
 いつまでも埒(らち)のあかない政府と北朝鮮の拉致問題解決の行方に、帰国者たちの表情は、ようやく深い焦燥と不安を滲(にじ)ませてきた。

 政府を信じて、解決を待つといっていた人たちの、明るい口調はもう聞かれなくなった。
 こうした不幸な運命に見舞われることは、めったにあることではない。しかし、現に、理不尽な運命によって、稀なる不幸を罪もない身に受けている被害者たちが存在するし、また将来にも増えないという保証はない。

 こうした不幸な事件によって、私たちは今更のように家族の絆(きずな)の強さを感じさせられている。

 他人は忘れても家族は決して無残な死や運命に襲われた身内のことをあきらめはしない。
 あの人たちを支援し、傷む心を慰めるために、当事者でないわれわれに出来ることは何だろうかと、真剣に考えることだけでも、無益なことではないと思う。

瀬戸内寂聴 : 著 : 「私たちは心寄せているか」 : 時代の風 :2003年5月25日毎日新聞社朝刊