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人間いかに生くべきか?

 私は本当に子どものころから自分の内面(小宇宙)を見つめ続けてきました。そして、「人間はなぜ死ぬのか」「生きるとはどいいうことなの か」というようなことばかり考え続けてきました。そのような「死生観」に真っ向から答えてくれたのが、カーライルと新渡戸稲造という二人の見上げるような 哲人だったのです。

 いま、日本では少年犯罪が大きな社会問題になっているといいます。私の当時、その年代にあたる旧制中学旧制高校の学生たちは、「死とは何か」「生とは何 か」「人生いかに生きるべきか」といったことばかりを考え続けていたのです。それなのに、いまの日本の青少年には、「人を殺して何で悪いのか?」などと、 馬鹿なことを言う者がいるという。

 人間、「死」という問題を考え抜いて、初めて「生」についても真剣に考えることができるようになるのです。死生観ですね。そして、この問題に一つの大き な鍵を与えてくれたのが、「永遠の否定」であり、またそれをいかにして「永遠の肯定」に変えていくかという生の哲学だったのです。

もっと簡単に言えば、 「永遠の否定」の渦中でトイフェルスドレック教授は、結局、霊魂、人間の魂の移ろいの過程で、決して理屈だけでは解けない問題に逢着(ほうちゃく)する。 たとえば「失恋」などもその象徴的なものですが、やがて彼は「センター・オブ・インデファンス」(Center of Indifference)のなかに入っていくわけです。「無関心の中心」に入っていく。

 そもそも「永遠の否定」というのは、
 「いかなる呼び方をするにせよ、結局、唯物主義や功利主義、享楽主義などというものは、すべて『人生の価値』の否定につながっていくこととなるのだ。なぜなら、神はイエスと言ったにもかかわらず、悪魔は永遠にノーと言い続けるからである」

 という永遠の真理を言い当てたものですが、それをいかにして「永遠の肯定」へと変えていくか、それがわれわれの人生に突きつけられた最大の命題でもあるわけです。

 その過程の中に「人生」があるのだから、そこで何を見つけだすかということが大事なのです。結局、やること、実践することなのです。まず、自分の手近に ある義務を果たせ。そうすれば自ずから先が見えてくる。人間や人生の真の意義というのは、何よりも自分でやってみること、実践躬行するところにあるのだと いう真理が、格闘しながら読み進んでいくうちに、おぼろげながら次第次第にわかってくる。

 人間、死んだ気になってやり通そうとさえすれば、どんなことでも成し遂げられないことなどないのです。すなわち、徹底的に「死」の意味を追求していくことによって、結局、輝かしい「生」の彼岸に到達できるのです。

李登輝 : 著 : 「武士道解題」 : 小学館