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ずいぶん前、首相官邸に初めて足を踏み入れた時の「ちょっと嫌な感じ」を今でも覚えている。千九百三十二年の五月十五日、官邸と棟続きの公邸 で曽祖父の犬養毅首相が軍の銃弾に倒れた。時の芳沢謙吉外相は祖父。まだ四歳で、外交官の父に連れられ米国にいた緒方に事件の記憶はない。

 が、祖母からよく当時の政治状況を聞かされて育った。のちに米カリフォルニア州立バークレー校で取得した博士号の論文は「満州事変と政策の形成過程-- -日本は自己を破滅に導くような膨張政策をなぜとらなければならなかったのか」。外交の孤立で自縄自縛に陥り、軍部の台頭に政治が翻弄(ほんろう)された 時代。政治家と外交官の血をうけた緒方の原点でもある。

 多くの日本の人材がそうであるように、「オガタ・サダコ」の評価が高まったのは、海外での方が先だったろう。一九九一年、六十三歳で国連難民高等弁務官に就任。「行動する高等弁務官」は世界を駆け回った。

 湾岸戦争でイラクから逃れてきた大量のクルド難民の受け入れをトルコが拒否すると、当のイラク側に安全地帯を設け、難民キャンプを作った。戦争直後のイ ラクはまさに手負いのクマ。さすがにUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)内部からも反対論が噴出したが、いったん決断するとテコでも動かない。

 身長百五十センチメートルの小柄な体に合う防弾チョッキはない。それでも重さ十五キログラムの特製防弾チョッキを着て、サラエボの紛争地帯を歩き回っ た。利害が対立する欧米諸国をけん制するため、国連事務総長の反対も押し切って援助物質の輸送を一時停止した時もある。各国で「オガタは抗議して辞任する つもりだ」との憶測が広まり、譲歩の機運ができた。緒方はけろっとしている。「全然、辞める気なんてありませんでした」

 着任早々から評価がが定まっていたわけではない。当時を知る関係者によると「最初はアジアのお金持ちの国から送られてきた女性か、くらいの感覚」で迎え られたらしい。そのアジアの女性」が膨大な資料を読み込み、専門家の説明を受ける。「こんなに覚えられるのかと思っていると、ネイティブな英語で次々に質 問が飛んだ。

 しばらくすると、緒方が事務所に現れた瞬間、張りつめた雰囲気が事務所に広がるようになる。平素、物静かで無駄口はきかない。日本人のイメージにつきものの「あいまいな微笑」もない。最後は、さも当たり前のように決断する。

 難民保護はちょっとした判断の誤りで多くの人命を失う。難民からも、そして難民を救おうとする側からも。どうやって決断するのか?「最後は理論ではない。一瞬のカンです」。政策決定論を専門とする学者らしからぬ見極めである。

 ひたすら現場を歩き、人の話を聞く。英エコノミスト誌は「ラストリゾート(最後の頼み)の女性」とたたえ、九五年にはユネスコ平和賞を受賞。ノーベル平和賞や国連事務総長の候補にも名前が挙がった。

 当時の部下の一人、UNHCRのカンディス・ロチャナンコ日本・韓国地域事務所代表は、緒方の存在が「退官してから一層、鮮明になった」。緒方を駆り立てた資質を「計り知れぬエネルギー、人道上の被害者に対する妥協なき専心、そして現場主義の熱意」と振り返った。

 緒方本人は「成功談」を口にしない。実績をあげた理由は、第一に「UNHCRは少し不幸な時代が続いていて、新任の弁務官を盛り上げてくれた」。二番目 に「次から次へといろんな問題が起きたからです。問題が起こるのは良くないことでしょうが、世界の目が難民に向く効果もある」。

 九十八年七月。緒方は自民党総裁選に勝ったばかりの小渕恵三から外相就任の打診を受けている。「(高等弁務官の)任期が残っているのにもどれません」。 即座に断った。前任者は母国ノルウェーの外相に就任するため、わずか十ヶ月で職を去った。リストラで二千人近くまで減っていた職員の士気はさらに落ちた。

 もっとも、目的のためには各国の政治家とも軍人とも徹底的につき合う。「政治家と交渉する」し、「戦争時には軍とも協力する」。そうでなければ、難民の命は守れない。肝心の資金も集まらない。

 自然体を極めると、自身が女性であることにもこだわりはないかのようだ。上智大学で教鞭を執っていた頃、女子学生からしばしば女性が社会進出する不利をどう克服するか、と聞かれた。

 緒方の答えは簡明だった。「女性と男性はサイクルが違うだけです」。女性が子供を産み、育てることは確かに社会のキャリアを重ねるうえでハンディにな る。しかし「男性と同じサイクルを歩まなくても出産し、子育てするのも幸せであり、喜び」。人生をトータルすれば同じ、の意かもしれない。

日銀出身の夫、四十郎と結婚したのは三十三歳の時。四十郎の父は首相目前といわれながら急逝した緒方竹虎・元副総裁である。大物政治家の系譜が結びつけた 縁とみられがちだが、実は熱烈な恋愛結婚だった。二人の子供の育児や母親の介護もこなしながら学界、そして外交界へとデビューした。家庭生活にとられた時 間を取り戻す秘訣は「勉強すること」だ。

 三期十年に及んだ高等弁務官を退いた後は、ニューヨークに居を構え、回顧録を執筆中だ。米国入りする直前の昨年四月、今度は小泉内閣の外相候補に擬せられた。「あれはそういうことを言った人がいた、というだけのことでしょう」とにべもない。

 ところがアフガニスタン問題で小泉首相から首相特別代表を依頼されると、あっさり引き受けた。アフガニスタンには悔やみきれない思い出がある。
 二千五百万人に及ぶとされる全世界の難民のうち、アフガニスタンは最多の四百六十万人。高等弁務官として現地に入り、国際社会に支援を呼びかけた。難民 はパキスタンに逃れてもいつまでともとも知れぬキャンプ生活。国に戻れば、そのパキスタンに後押しされたタリバン政権。そして国際社会は無関心。「見捨て られた国」に関心を集めることはできなかった。緒方にしてみれば、やり残した仕事にほかならない。

 「外交空白」で浮上する緒方カード。七十四歳に頼らざるをえないのも、日本の人材払底の証左かと聞くと「いや、そんなことはありません。今の若い世代には立派な人がいる。ただ、その人たちを引っ張り上げるシステムがないだけ」。

 難民支援の現場で経験を積み、次のステップを見つけようとする若者も多い。しかし日本の社会はなかなかそういう経験を評価しない。海外が先に評価すればそれを受け入れるが、自ら評価しようとする許容度は限られている。

 財界も問題だ。緒方は言う。「紛争の時に真っ先に飛んでくるのは政治家」。しかし、日本の政治家は「外交の実績が国内に跳ね返るということがないんで しょうね」。それも元をただせば「政治家の官僚化でしょう」。政治を業とすろ自負よりも永田町の階段を上ることに心を砕く風潮がまん延した。

 森政権の末期、官民の有志がその緒方を「首相にする会」を作ったと報じられたことがある。首相になる気はありますか?いつものように答えは簡単だった。「冗談じゃありません。餅(もち)は餅屋です。」

世界と歩む : 日本経済新聞2002年1月1日:朝刊