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太田愛人:著:「新渡戸稲造『武士道』の根と花 

 新渡戸稲造は『武士道』第一章の冒頭で、武士道を桜の花にたとえている。しかも?葉中に保存されない、力と美の活ける対象としての花であ る。花が咲くためには隠れた根から養分を吸い、根が幹を支え、その先端の枝が必要である。 
 
『武士道』を読んだ人は例外なく内外の文献の博引傍証の妙、歴史 の造詣の深さに驚かされる。そして著者自身の出目へと関心が向けられるだろう。英文で十九世紀の終わりに、静養先のカリフォルニアで記され、身の回りに参 考文献を山積みにすることなく、知日の友人である女性アンナ・ハーツホンの意見を聴きつつ日本の魂を日本人でなく国外の人々に説明しようと試みたのであ る。
 
 『武士道』執筆の動機は序文にあるように、ベルギーの法学者ド・ラブレー氏と散歩の途上の対話であった。そのとき訊かれた言葉「あなたのお国の学校には 宗教教育はない、と仰しゃるのですか」「宗教なし!どうして道徳教育を授けるのですか」との繰返しに、その回答を約十年後に書いたのである。 
 
同時に、自分 の妻であるマリー夫人の日本の思想や風習に対する質問に答える形で書いたのである。新渡戸が洗礼を受けた宣教師ハリスの夫人は日本語に精通し、古典作品ま で翻訳したのに比べて、マリー夫人は日本語になじまなかったことも英文記述の理由になっている。 
 
『武士道』の少し前に伊香保で書いた新渡戸の代表作『農業 本論』の扉に「辱けなく高恩を追慕し亡母の紀念に此書を捧ぐ」と書いたように。『武士道』の扉に「過去を敬うこと並に 武士の徳行を慕ふことを 私に教へ たる 我が愛する叔父 太田時敏にこの小著を ささぐ」と記した。 
 
新渡戸の父伝(つたう)は稲造満四歳の時、慶応三年に没し、十歳の少年を東京に引き取っ て育てた父の弟時敏は、稲造の成人までに父の役割をはたした武士であった。『武士道』理解のためには旧南部藩士の心を無視しえない。歴史や、習慣など一切 記されていないが、養父の武士のエートスから子は多くのものを学びとっていたのである。 
 
従って朝敵の烙印を押された南部藩士の子が、いかにして変革時代を 生き抜くかが新渡戸に課せられた宿題であった。太田時敏は時代の変革を一身に背負って生き、稲造に期待をかけていたのである。
 
 新 渡戸の幼児期を回想した英文「幼き日の思い出」の中に「わが町を敵の手に明け渡した日のことを私は決して忘れない。私たちは耐えられないほどの屈辱感に襲 われた」と書いている。稲造四歳のとき、盛岡から花巻の叔父の家に滞在していたが、偶然、薩長軍が鳴り物入りで町中を行進したことを恐怖の中で見聞した。 
 
そして三つ子の魂が成長した暁に、『武士道--日本の魂--日本思想の解明--』を英文で書くことになったのである。叔父太田時敏は最後の南部藩の武士 で、明治時代になっても南部藩の家令を務め、財政の後見者原敬と共に旧藩主を支えた人物である。 
 
太田と原をめぐる一挿話が残っている。南部藩の家老楢山佐 渡が官軍に抗して最後の戦いをした責任をとって報恩寺で刎首の刑を受けたが、そのとき介錯の役をすることに決まっていた時敏は旧友の首をはねることを避 け、密かに東京へ脱出したのである。進駐した薩長軍の目を避けて一商人になり変り、甥の稲造を東京に迎えて養子とし新時代に適応させた。
 
 十二歳の時、楢山の死の報に接した原敬は、報恩寺の境内を暗涙にむせびながら歩いたといわれている。後世、「白河以上一山百文」をもじっ て一山、逸山と号して山形有朋らに対峙したいきさつの中にも、楢山の死が秘められていた。 
 
末期の南部藩から新時代に飛躍していくためには学問や宗教が踏み 台となり、郷里から出る者が相次いだ。原も新渡戸と同じ年に東京に向かい、翌年、田中館愛橘が上京した。太田時敏は新時代の希望を稲造に託したが、その育 て方は『武士道』にあげられた徳目に適うものであった。東京での薩長閥の面々の乱行は旧江戸人の批判を招き、薩長人森有礼の兄横山安武の諫死が評判になっ た。 
 
逆に敗者の側から学問による再起の動きが見られた。明治プロテスタントの動きが横浜、熊本、札幌、静岡から始まった。これらに共通するのは敗者の武士 の子弟が洋学を学ぶことであった。新渡戸が札幌で学ぶことや渡米することに太田は反対することなく秩禄千円を稲造に旅費として与えた。しかし最初は稲造の 国際結婚に強く反対したが、来日したマリーを見てから賛成している。

 『武士道』の英文や訳文を読んで大隈重信や伊藤博文が 驚き、人々に勧めた。その影響力は明治初期の中村正直の『西国立志編』にも匹敵する広さををもっていた。一方、新渡戸は明治政府を牛耳る人々よりも西欧を 知っていた日本人からの批評を尊重していた。一つの挿話が『植村正久と其の時代』の第一巻に記されている。 
 
新渡戸の四歳年長の植村は、富士見町教会牧師で 「福音新報」の発行者として健筆をふるっていた。父は旗本千五百石とりの高級武士であったが、維新で禄を失い、子は千葉県で豚を飼う生活もした。横浜に出 て英学を学んでいるうちにキリスト者になった。いわば時の敗者を体験した人である。

 植村は福音新報で逸早く『武士道』を紹 介し「此の種類の英文著書中、体裁の最も善く、整へるものにて、文学上の価値もまた見るべきものなり」と書いた。 
 
また、「英文武士道が余りに弁護士的の態 度に出たことは余輩の聊か遺憾ととするところなり。然れども余輩は新渡戸氏に於て熱心にして雄弁なる弁護士を得たることを喜ぶ。若しラフカデオ・ヘルン氏 をして外国の援軍たらしめば、新渡戸氏の如きは精鋭なる日本の新兵、以って大敵を砕くに足るベし。 
 
是れ余輩が『武士道』に於て多とする一言なり」。植村の 批判は「元禄文学などに一つの題目となれる最も忌はしき武士の猥褻は、余りに詩的に武士を謳歌する者をして調子に乗らざらしむる事の歯止めなるべし。」と なし、結語として「然れども新渡戸稲造氏は漫に武士道に心酔するものにあらず。氏は其の将来に維持す可らざるを熟知せり。 
 
彼は丁寧に武士道を葬るべきの時 到れりと明言せり。武士道を葬りて其の相続を為すべきものは誰ぞや。新渡戸氏は基督教即ち是れなると言はる。是れ甚だ適当なる結論なり。余輩は武士道の精 神は基督教に依りて保全せらるべきを疑わず。稿を改めて之を論ずべし。」(明治34年3月福音新報)と英文武士道を紹介した。

 こ の植村の批判に対して新渡戸は共感して語っている。「自分は日本の武士道を書いたが、之に対して英文と邦文の批評が沢山あった。けれどもそのうちで植村先 生の批評こそ最も自分の意を得たものである」。ある日、後藤新平夫人の招きで植村が訪ねた時、新渡戸、後藤新平、長尾半平が同席していた。 
 
席上、話が展開 し、植村が書いた例話がとりあげられた。それは「英国人などが其の家に日本人を招きて其の隅々無遠慮に開放して、何恐れ気ななきに引き替え、日本人は其の 家を斯の如き暴露して忌み憚る所なきこと能はざるなり」という比較論である。 
 
座談では更に発展して「日本人の所に客に行くと床の間以外に客に来られると困 る。それと同様に新渡戸君の武士道は床の間付きの部屋を外国人に紹介したものだ。・・・・どうです、それでは日本の台所を書いては」と笑いをもって終わっ ていた。そのやりとりを聞いていた後藤新平が「一体、表より裏のいいのは羽織よりないですからね」と言って一座大笑いになった。珍しい知らざれる『武士 道』評だ。

 『武士道』が巷間に流布し、その紹介が盛んになる昨今、原著者の意図から離れ、その志と乖離する論説が増えてき ている。非戦の書の表紙に武士の真向唐竹割りの絵をのせた『武士道』訳が書店に並ぶ時代である。 
 
貯えられた徳目が次々に失われていく軌跡を日本現代史に読 みとることができよう。そして新渡戸の最晩年に「日本を滅すのは共産主義と軍閥である。」と語らせ、亡命者の如くカナダに赴き、客死した悲劇を回想させ る。

 巻末に、武士道のあとに平民道の到来を期待した新渡戸の意図に反し、平民道もキリスト教も抑圧されていく。「国家の理 想」を昭和十二年に書いて東大を追放された矢内原忠雄は、岩波茂雄の義挙に応じて十三年に『武士道』の改訳を出版し、続いて『余の尊敬する人物』上下を出 し、リンカーンと新渡戸を一書に共存させた。 
 
さらに戦線が中国に延びる時代に、医療宣教師英国人クリスティの『奉天三十年』上下の訳を出して世に問うた。 矢内原の生活を陰で支えたのが『武士道』の改訳に続く昭和十三年の出版物であった。この年、新渡戸を祖父的存在と書いている前田(後の神谷)美恵子が、ギ リシャ語からマルクス・アウレリウスの『自省録』を訳出して出版し、二千年前のローマの賢王の書いた西欧版武士道を日本に初めて紹介した。 
 
彼女は訳書の扉 に、神谷が私事していた新渡戸の弟子三谷隆正に捧ぐ、と書いた。この神谷こそ十二のとき、ジュネーブで新渡戸から帰国に際して直に『武士道』のフランス語 訳を贈られている。その本の扉に新渡戸の署名が書き込まれていた。  
   
 前田みゑ子さん、いつか之を読んで下さい。而して 悪い所を直して下さい。昭和ニ甘日、新渡戸」。新渡戸は『武士道』に先輩植村からの批評と後進の神谷からの批評を期待していた。 
神谷は訂正する代りに、自 分の生涯の中で『武士道』に記された徳目を戦中、戦後にかけて実践したのである。西洋古典語の学識を放棄して医学を学び、当時、敬遠されがちな精神病や皮 膚病に属したハンセン病に向かい瀬戸内海の小島の隔離病棟に医師として赴任したことは新渡戸の期待に適う行動といえよう。
 
 新渡戸は「今や武士道の日は暮れつつある」(17章)と書いた。軍刀を振りまわす軍人よりメスをもって患者に向かう女性に武士道の真髄を発見することができるのである。

太田愛人 : 著 : 「新渡戸稲造『武士道』の根と花」 : 文芸別冊「武士道入門」 : 河出書房新社