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高田渡を悼む

 自分の人生の伴奏者。しょっちゅう会っていなくても、話をしなくても、この人だけはいつも自分のそばを一緒に走ってくれていると思える存在。それが親友というものではないだろうか。人生にそんな同士、伴侶がいるのは、とてもしあわせなことだ。

 ぼくの場合、それは高田渡だった。その人がいなくなってしまうという、あってはならないことが起こってしまった。

 知り合ったのは1960年代後半、どちらもまだ高校生。当時日本で広がり始めたアメリカのフォーク・ソングが二人とも大好きで、会えばウディ・ガスリーやピート・シーガー、ボブ・ディランなど、フォークの先達の話を熱心に語り合った。

 それぞれ自分の曲を作ったり、歌ったりしていて、渡は日本や外国の詩にアメリカのフォークのメロディーを結びつけることで、独自のスタイルを築き上げていった。

 自分のものではない添田唖蝉坊の演歌の詞と自分のものではないカーター・ファミリーの曲が結びついた「虱の旅」は、誰のものでもない高田渡の歌になっていた。金子光晴の詩とミシシッピ・ジョン・ハートの曲が結びついた「’69」は誰のものでもない高田渡の歌になっていた。シェフチェンコの詩とレッドベリーの曲が結びついた「くつが一足あったらなら」は、誰のものでもない高田渡の歌になっていた。

 まるで違う二つのものを結びつけて、まったく新しい自分の歌を作り出す。高田渡には歌の錬金術師のようなところがあった。

 そんな唯一無二の日本のフォークを次々と作り出しながら、高田渡は小さなお店から大きなホールまで、みんなに呼ばれるまま、40年近く、日本中を歌い回り続けた。

 生まじめで、頑固で、照れ屋で、純情だった。だからみんな高田渡を愛した。欺瞞(ぎまん)や作為、見せかけが大嫌いで、力あるものに寄り添い、威張る人間を許さなかった。だからみんな高田渡を愛した。

 とんでもなく酒を飲むようになり、いろんな人たちにさんざん迷惑をかけた。だからみんな高田渡を愛した。人なつこくて、優しくて、寂びしがりやで、人のことばかり思いやる大きな心を持っていた。だからみんな高田渡を愛した。

 その渡が4月4日に公演先の釧路で倒れ、16日に還らぬ人となった。葬式なんかするなと渡は言っていたが、18日に近しい者だけで告別ミサをすることになった。場所は渡がいつも飲みに行っていた吉祥寺のいせやのそばの教会。誰にも知らせなかったのに、300人以上もの人たちが集まった。

 そのミサで、今はミュージシャンとして大活躍している渡の息子の漣くんが、「とんでもない親父だった。年が経って、いいところばかり語られて、高田渡が美化されないことを願う」と、とても素敵なスピーチをした。余計なことかもしれないが、そんな心配はないとぼくは思う。

 人と人生と歌を愛し、そのまっすぐさゆえみんなにさんざん迷惑をかけた渡の生き方は、これ以上はないと言えるほど美しいものだったのだから。

中川五郎 : 著 : 「高田渡を悼む」 : フォークの錬金術師 : 2005年5月1日毎日新聞統合版