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全生園の灯

 日曜日は歩くことにしている。歩くといっても、二、三時間の散歩に過ぎないのだが、仕事と距離をとるにはいい。三十分も歩くと、いつの間に か頭がカラッポになっていく。その効果は、次の日机に向かったとたんはっきりした。歩かなかった週は長く重く、歩けば週の中頃まではなんとか持ちこたえら れた。

 自分の散歩コースの途中に、柊(ひいらぎ)の生け垣にかこまれた場所がある。ハンセン病療養所の国立多摩全生園である。門は既に開放され、 柊の生け垣は低く刈りそろえられていたが、僕は中に入るのをためらっていた。ハンセン病については常識程度に知っていた。感染力はとても弱く、もはや不治 でもなく、政府の患者隔離政策は世間に恐怖と偏見を植え付けただけで、病気の根絶にはまったく寄与しなかったことなど。

 しかし、生け垣の中を直視する覚悟と資格が自分にあるとは思えなかった。好奇の対象にするのは無礼すぎる。

 僕がはじめて全生園に足を踏み入れたのは、「もののけ姫」の最中だった。仕事が重く、はかどらず、歩いても間歇的に不安がつきあげて来て、頭は堂々めぐりをやめようとしない。何がきっかけだったのか、僕は突然思い立って、早春のおそい午後に生け垣の中へ入っていった。

 最初に目をひかれたのは、巨きな桜の並木だった。幹は西陽(にしび)に染まって輝き。芽吹き前の梢ははるか高く空に展(ひろ)がっていた。

 なんという生命力だろう。僕は圧倒され、畏(おそ)れに近い感情におそわれて、その日はそれだけで引き返してしまった。

 次の週も僕はそこへ行った。資料館にも息をひそめて入った。予想をこえていた。
 沈黙の中に、ハンセン病と向きあった人々の記録がつづられている。究極の人間の高貴さと共に、社会の愚かさもあわせてそこにあった。

 何より心を打たれたのは、たしかに生きた人々の営みがしるされていることだった。どんな苦しみの中にも、喜びや笑いも又あるのだ。曖昧になりがちな人間の生が、これほどくっきりと見える場所はない。

 おろそかに生きてはならない。
 先達に諭された若者のように、素直な気持ちになって僕は資料館を出た。

 それから、全生園は僕の大切な場所のひとつになった。日曜の度に園内を歩いた。そこはいつも清潔で静かで、住む人々は皆おだやかで慎ましやかだった。外から訪れる人達の方がさわがしく、どこか傲慢な感じがしたのは僕の思い過ごしかもしれない。

 敷地の一角に、使われなくなった建物達が遺されている。入園者の宿舎、親からひき離された子供達」の少年少女宿舎。北条民雄の短歌「望郷歌」の舞台と なった分教場、図書館。人々の無念と悲しみがしみ込んでいるはずなのに、少しもおそろしい感じがしない。その前に立つと、厳粛なあたたかい想いが湧き出て 来る。どれもいい建物なのだ。

  昭和のはじめに建てられたのに、よく残ってくれたと思う。同時代の建物は、東京からほとんど姿を消してしまった。聞けば入園者の大工さん達が建てたのだと いう。しっかりした敷石も、ぬかるみに苦しむ人のために、みんなで力を合わせて敷いたのだった。この建物達が、ここで保存されたらどんなにかいいだろう。 感染症の歴史のためにも、建築史の上からも、とても意味があると思う。

 深夜、仕事からの帰り途に、柊の隙間に全生園の灯が見えると、僕は無性になつかしさを感じるようになっていった。映画が終わる頃、そこは自分にとって、一種の聖地になっていたのだ。

 日本国政府が、ようやく患者さん達に謝罪した。僕はよかったと思った。そして、患者だった人々だけでなく、親や子や、友を連れ去られ沈黙を強いられた人々が、日本のあちこちで秘かに流している涙を想った。

宮崎 駿 : 「全生園の灯」 : 朝日新聞 : 2002年4月20日朝刊