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ナチス親衛隊軍曹は言う。
 軍曹 「運が強いな、先生。特赦が出た。残れ、貨車には乗らんでいい」
 コルチャック 「子どもたちをすぐ降ろしましょう」
 軍曹 「待て。誰が子どもたちといった?」
 コルチャック 「では子どもたちは?」
 軍曹 「もちろん行く。戦争中だぞ、自分一人生き延びろ、誰も咎めやせん」
 コルチャック 「お断りする。私には未来があるから」

  (乗り込む。貨車の扉の閉まる音。照明カットアウト)

 好きな役と役者の別れほど切なく辛いものはありません。私の燃えるような夏は終わりました。この公演には個人的な小さなオマケがつきました。
 私がまだこの役の準備に入ったばかりの頃です。私の机の上にコルチャック先生の著書が日に日に増えていきました。すると、机の上から次つぎとそれを持ち 出している幼い読者に私は気づいたのです。うちの次男の中学三年生でした。彼はしだいに私の机を占領し、長いレポートを書き始めました。今度は父親の私が 彼の手元をのぞき込む番でした。その作文の一節です。

 (音楽 ピアノ「動物の舞踏会」)
 『コルチャック先生』という本を一気に読んでしまった時、僕はなかなか寝つけなかった。
 ベッドの上の天井がまるで不思議なスクリーンになってしまったように、会ったこともない先生の思い出が次つぎと映し出された。「死は形を変えた生であ る」と書き残してガス室に消えたコルチャック先生の「生」はどこにあるのか?を考え続けた。そして今、こんなに僕が先生のことを考えつづけていること自 体、先生の「生」ではないか?と思い至ったら少し安心した。

 この少年はレポート三十枚をさっさと書き終えて演出者に送り、少年演技者のオーディションを受けて合格、ヤコブという役を獲得、初めての社会参加のための夏を送ることになりました。
 戦後五十年がすでに過ぎました。あの戦争の最年少の体験者・目撃者である私は、戦争という極限状況の中で人間が人間に対して何をしたのかを、次の世代に はっきりと伝える義務のようなものを感じていたのですが、次の世代の行動力に一本とられた形となりました。この公演は連日超満員という嬉しい結果を出すこ とができました。
 先ほどの中学生の作文の続きです。

  この夏、父はコルチャック先生であった。僕だけの父ではなかった。僕もひと夏、ガス室で命を奪われたユダヤ人の少年ヤコブとして暮らして みて、考えたことがある。「もし世界中の科学者が反対すれば戦争は起きないだろう」という、戦争についての提言があるが、僕はこれでは不充分だと思う。 「もし世界中の科学者が賛成したとしても戦争は起きない」というレベルを早く獲得しないと、戦争は何度でも起きるだろう。僕は気の弱い男だから、戦争で人 を殺すなんてとてもできない。気の弱い男でも、人を殺さない権利を堂々と主張してそれが通る日本にしておきたい。コルチャック先生の命日八月六日が僕たち のヒロシマの日と同じであることは偶然の一致とは思えなくなってきた。

 日本で最初にコルチャック先生を演じた俳優であることを私は心から光栄に思い、誇りに思っております。もし「愛のために人は死ねるか」とい う設問が人類に向かって発せられたとしたら、コルチャック先生は明快にそれに答えを出されたと思います。子どもたちへの犠牲ではない、ましてや死の賛美で はない。自分のために自分の人生をしっかりと生きる選択が、この困難な時代では死へとつながっていったのです。つまり「愛のために人は死ねるか」という問 いは「愛のために人は生きられるか」という問いとまったく同じもの、表裏のものであろうと私は考えています。この問いなら、私たちは今すぐにでも答えが出 ますよね。

 二十世紀は人類史上最大の虐殺の世紀でした。コルチャック先生の思想と生活は、この虐殺の思想の対極にあるものです。

 「人間が人間に対して何をしたか?」ということを、私たちは辛くてもしっかり見据えなければならないと思います。そして「人間が人間に対して何をなすことができたか?」を、私はコルチャック先生の生き方から学びたいと思っています。
 先生の亡くなった日、八月六日はポーランドと私たちのヒロシマをしっかり結んでいます。夏が来るたび、私は舞台劇『コルチャック先生』の上演をライフワークとして続け、主演者として舞台に立ち続けていきたいと思っています。

加藤 剛 著 : 「こんな美しい夜明け」 : 岩波書店