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尼院を出でて

かた、とかんぬきは落ちぬ。

尼院の裏戸の小さき隙間より

さつとさし込む細き光の流れ

そをあびつゝなゝめに体くぐらせて

外の世界へとすべりいでぬ。

まばゆくもあるかな陽の輝き

きらびなるかな花のいろどり

灰色の日陰に生ひにし身

くらくらと眼くらみて

しばし柱にすがりすくみぬ

かへりなばなつかしきかな

かのひんやりしめりたる尼院の大奥

ひねもす聖燈ゆらぐ御堂の沈黙

ぬばまたの黒き夜にひざまづきて

白き額に十字結ぶ尼僧の群

なべて世に望み失ひし心の

裡へ裡へとひたすらひそみ行きて

いや深きけがれの姿におのゝき

はては上へ上へと慕い行きて

尊き幻に心をどらせし日々よ。

ゆめ忘れじな かの静寂と悲哀

ゆめ蔑すまじ かの苦行と祈念。

かしこにてうけたる永遠の世界の

神秘なる消息といぶきとを

しかと胸に抱きて行かまし。

きけ、今ぞ鶯は枝に歌い

身ぬちにはあたゝかき生命の

せきを破りてへい迸(ほとばし)りいづるおぼゆ

長き冬の日は終わりをつげ

わが初春こゝにあけそめぬ。

あゝ、今ぞ出でて行かまし、

生命と光と、色と匂ひと、

さまざまの響きみつる世界に。

人々のよろこびの声我を招き

人々のなやみの叫び我を呼ばふ。

前田美恵子 : 著 : 「尼院を出でて」 : 神谷美恵子の世界 : みすず書房