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すべてこの事においてヨブは罪を犯さず(ヨブ記1・22)

 「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」----歎異抄の一節である。私たちはこの親鸞の言葉を耳にするとき、はてな、と思う。そし てそんなことがあってたまるかと反発を感じる。私たちが一生懸命に善に励むのは、善業が善果を生むと信じるからである。

悪行を慎むのは、それが悪果をもた らすことを恐れるからである。私たちは、私たちの世界にはそういう法則が存在すると信じる。そういう私たちに、善人が善果を得るのだから、悪人はなおさら 善き実を得るなどと言われると、なかなか素直に受け入れることができないのは当然である。

 はたして私たちの世界には「因果応報」の法則が存在するのだろうか。これは人類が追求してきた課題であり、宗教はそれの解釈であるとも言える。前述の親鸞の言葉も、この人類永遠の課題に対する彼の大胆な釈義である。彼はそこに仏の慈悲を見たのであろう。

 私たちが今から学ぼうとしているヨブ記もまた、この課題をテーマとした物語である。彼は「そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかっ た」、すなわち、彼は義しい人であった。

ところが、その義人ヨブに思いがけない災難が次々と襲ってき、彼は一瞬にして財産を失い、愛する子たちをなくして しまった。一体、そんなことがあってよいのだろうか。しかし、ヨブはこのとき、起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝し、そして言った。

  「わたしは裸で母の胎を出た。
  また裸でかしこに帰ろう。
  主が与え、主が取られたのだ。
  主のみ名はほむべきかな」

 なんと力強い信仰だろう。信仰とは神の言葉によって現実を貫くことである。こちらには言い分もある。注文もある。だが、神のみ前に沈黙することである。
 主イエス・キリストは十字架上で「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と祈っている(ルカ23・46)。

これは詩篇三一篇五節の言葉である。この言葉 はユダヤ人の母親が子供に教える最初の祈りの言葉だそうだ。それは「おやすみなさい」という言葉である。マルチン・ルターはこのみ言葉から「わたしたちの 身も魂もいっさいをみ手にゆだねます」という言葉を夜の祈りの言葉としたとのことである。

「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」 と激しく神に訴えた主イエス、まことに神の子が十字架につけられて死ぬというようなことは、決してあってはならないことである。その悲劇の矛盾の中におか れながら、なお、神に向かって「おやすみなさい」と祈って死についた主イエス、これが信仰である。

 すべてこの事においてヨブは罪を犯さず、また神に向かって愚かなことを言わなかった。友よ、あなたはどうか。

榎本保郎 著 : 旧約聖書一日一章 : 主婦の友社