Home Page Image
   
 
   

チェチェン やめられない戦争

 九月初旬に北オセチアのベスランという町で起こった悲劇は、テロリズムが人間の精神にもたらしうる荒廃のすさまじさを世界に印象づけることになった。これを機会に、「テロとの戦争」が改めて声高に叫ばれ、ロシアでは大統領の強権的支配体制がいっそう強化されつつある。しかし、その一方で、事件の背景、いや根源にあったはずのチェチェン戦争のことが見えてこないのがもどかしい。多くの子供たちを人質にとったテロリストたちの所業を、極悪非道な犯罪として切り捨てるのは簡単だが、それでは彼らをそこまで追い詰めたものは何なのか。いまだに戦争が続くチェチェンではもっと恐ろしいことが、もっと大規模にしかも日常的に行われているのではないのか。

 しかし、報道規制が厳しくなっているロシアでは、大統領が「テロリスト」とは一切交渉も対話もしないという強硬姿勢を貫き、チェチェン側の言い分やチェチェンの現実を客観的に伝えようとする報道が締め出されているため、チェチェン人は皆(!)単なる人殺しの野蛮な悪党だといったイメージが強められている。しかし、ベスランの事件にしても、その実行犯の中にどれほどチェチェン人が入っていたかさえもよくわかっていないのだ。私たちはイメージの背後に隠された現実を、あまりにも知らないのではないだろうか。一説によれば、チェチェン戦争では二十万人もの犠牲者が出ているというのだが、じつは死者の数のまともな統計さえないのが現状である。

 そういった情報の飢えをいやすべき貴重な一冊が、ポリトコフスカヤの『チェチェン やめられない戦争』だ。著者はロシア人女性のジャーナリスト。あるモスクワの新聞の特派員としてチェチェンに足を運び、第二次チェチェン戦争下にあるチェチェンの悲惨な現実を一九九九年以来自分の目と足で取材してきた。このような危険な地域に潜入し、長期間にわたって取材を続けることは文字通り命がけの仕事だが、著者は特に戦争を専門とする特別な記者ではないという。彼女が派遣されたのは、むしろごく「普通の市民」だからだった。だからこそ「同じ一般市民の、つまり戦争に巻き込まれてしまったチェチェンの村や街の人びとの体験をもっとよく理解できよう」というわけなのだ。

 実際、このチェチェン・レポートは、大局高所からチェチェン情勢を論じようというわけではなく、あくまでも普通の市民の立場にたって戦争の現実を伝えようとしている。当然、そういった見方には限界もある。全体像がかえって見えにくくなる恐れもあるからだ。しかし著者が女性であることは、やはり大きな利点だと言えるだろう。取材先の人々の信頼を得て、市民生活のもっとも柔らかで感じやすい部分に入り込むことができるからだ。子供たちの苦しみ、女たちの(男の前にはけっしてさらすことのできない)恥辱。それが「普通の市民」の目に、くっきりと映し出される。

 このポリトコフスカヤがいまのロシアにとってどんな存在であるかを説明するためには、ベスランの学校占拠事件の際に彼女の身に起こった奇怪な事件のことを紹介するのがてっとりばやい。彼女は占拠事件の勃発を知り、交渉による打開の道を探るために現場に急行しようとしたのだが、連邦警察にわざわざ座席を準備されたとおぼしき飛行機に案内され、機内で出された紅茶を飲んだ直後に意識を失い、病院にかつぎこまれたのだ。一命はとりとめたものの、生死の境をさまよう重態だったらしい。彼女自身がこの経験を含めてベスランの事件のことを書いた記事がイギリスの『ガーディアン』紙に掲載されているが、そのタイトルは、なんと「プーチンに毒を盛られて」(!)となっている。

 本書はチェチェン戦争下で苦しむ一般市民の姿に焦点を合わせながら、ほとんど強盗の集団になりさがった現地のロシア連邦軍による「掃討作戦」の実態を伝えるだけでなく、戦争によってモラルが荒(すさ)んだチェチェン人たちの心のあり方にも肉薄する。そして、さらには軍閥や石油利権に絡んだ人たちにとってこれが「うまみにある戦争」である実態にまで説き及び、だからこそ戦争が「やめられない」のだという泥沼の現実をえぐりだす。

 巻末に掲載されたイギリスに亡命中のザカーエフ(チェチェン独立派の指導者の一人)の言葉が印象的だ。「この戦争には英雄はいません。勝利者も。民族は完全に辱められ、陵辱されてしまった」。その一方、ロシア大統領は「テロリストの煽動に屈する者は共犯者ともなす」とまで宣言し、自分の政策を批判する者を容赦しない姿勢を強めている。しかし、ロシアのインテリゲンチアは、そしてロシアの文学は、トルストイからソルジェニーツェンまで、自由な言論を封殺しようとする権力のテロルを勇敢に批判し続けてきた。ポリトコフスカヤはその輝かしい伝統に連なる一人である。

沼野充義 : 評 : 『アンナ・ポリトコフスカヤ: 著 : 「チェチェン やめられない戦争」 : NHK出版』 : 今月の本棚 : 2004年9月26日統合版